文学調で日記

 レタスを剥いていたらそこに一匹の蛞蝓(ナメクジ)がポツリと存在していた.

 状況を飲み込めていない私はしばらくじっと蛇口から溢れ出る奔流とそれとを見比べていたが,やがて黙然とそれをつまみ上げ,窓の外に放った.外を歩いている人の頭に降る可能性も捨てきれなかった.私は迂闊であった.しかしそんなことは案外パニクっていた私の頭上にそれほど大きな後悔を落とさなかった.

 落ち着け.その空虚な一言だけを私は反芻した.

 ぬめりを帯びたレタスの葉,黒い粒が散りばめられた緑の薄い一枚の葉,先ほどまでこの尊い葉を食らい,葉脈から緑の生血をすすっては汚らわしい残滓に変換していた邪悪な軟体生物は,もう闇の彼方に消え去っていたにもかかわらず,その恐るべき魔力は衰えることを知らなかった.蛞蝓の魔力はその術者を失ってなおも私の意識を縛り続けていた.

 私はその汚されたレタスを前に,ただただ圧倒され,また急速に食欲を失いつつあった.

 食べられないかもしれない.私の第六感が静かに告げた.

 丸く小さくなったレタスは,これからその葉を大きく広げ大空を仰ぎ見んとするエナジイに溢れていた.このレタスが路地で太陽の光を浴び,大地から貪欲に水を吸い上げ,己を進化させていく姿を想像したとき,その食い荒らされた惨めな葉脈が脈動したかのように思えた.突如私はなんら変哲のない葉っぱ一切れに力強い生命の鼓動を見た.

 このレタスはまだ生きている.

 命の連鎖.それを感じつつ私はレタスを食べることを決断した.蛞蝓がいたからなんだというのだ,洗って全てを忘れてしまおう.考えようによっては蛞蝓が食べたくなるほど美味しいレタスなのだから.

 それが人間として大きくなるための,一つのステップなのだから.

 そして私は葉っぱを洗い,全てを水に流すことにした.

 迂闊な私は何の疑いもなしに,鼻歌さえ交えながら作業を再開した.レタスを剥いて水で洗っては引き千切って皿に盛り付ていった.一枚,そしてまた一枚と剥いでそして更にもう一枚剥いだその刹那私の網膜を焦がしたのはまたしてもあの醜悪な蛞蝓が葉の裏でうごめいている姿だったのだ

 父さん母さん,「まぁ,二匹も蛞蝓がいるなんて,よほど美味しいレタスなんでしょう」と素直になれない無様な私をお許しください.

 レタスに清めの塩を十分にふりかけ(言うまでもなく蛞蝓はレタスについたまま)私はもはや死んだも同然の緑塊を憎しみと共にゴミ箱に捨て去った.もちろん皿の上に盛り付けてあった葉っぱも全て捨て去った.

 しばらくの間虚脱感を味わった私は皮肉そうに口の端を引きつらせて蛇口を締めた.それは蛇口を締めることでこの事件も締めくくろうという,ちょっとした駄洒落のつもりでもあった.